「ベルリンの壁」崩壊から、今日で20年が経ちました。
壁の崩壊といわれますが、実際には当時のドイツ民主共和国(東ドイツ)政府が、民主化のうねりに抗しきれず、国民の自由な渡航を認める発表を行ったのが、1989年のこの日であるということです。その発表をラジオやテレビで聞いた東ベルリン市民などが検問所に押しかけ、現場の東ドイツ国境警備隊員の判断で検問所を開放され、人々は次々と西ベルリン側に入って行きました。
同国は、翌1990年、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に吸収される形で消滅し、ドイツ統一が実現しました。その後冷戦時東側陣営として、ソ連の影響下に在ったワルシャワ条約機構に加盟していた国々でも民主化革命が相次ぎ、1991年にはそのソ連自体が消滅してしまいました。
90年12月当時、私は松下政経塾生として、ドイツに滞在しておりました。
冷戦崩壊が進行しつつある中、これからは国家対国家ではなく、国家対特定組織との戦いが戦争の主流となり、テロや地域紛争が続発してくるであろう、というのが24歳であった私の国際情勢観でした。しかし当時の世相は、これからは平和の時代になるという雰囲気で、政経塾内でも「へるみは何を言っているんだ。またアイツの右翼的、タカ派的言動が始まった。」とよく諸先輩方から言われました。しかしこの時既に中東では、イラクによるクウェート侵攻が行われ、翌年1月の湾岸戦争勃発に繋がって行きました。
その私がドイツに赴いた理由は、同じ敗戦国でありながら、ドイツは国防、特にテロ対策に力を入れている、77年ダッカで起きた日航機ハイジャック事件では、当時の日本政府は犯人グループの要求どおり、テロリストを拘置所から釈放し身代金まで支払った、しかし同じ頃西ドイツ旅客機がハイジャックされた時、当時の社民党政権は特殊部隊を派遣し犯人グループを鎮圧、そして乗客を救出した実績が在りました。
テロ対策をは初め治安対策の最前線を見てみたい、そんな思いで政経塾海外研修制度を利用してドイツ各所を周りました。その一つボン警視庁では、旧東ドイツ警察官を再教育して、再び東側に派遣する訓練を行っておりました。同じ国民ですから言葉の障壁は在りませんでしたが、住民を監視する警察から住民を守るための警察への移行という点で、警察概念の障壁は在ったようです。
ベルリン市内では、東ドイツの秘密警察「シュターツ・ジッシャハイト」(国家保安省 通称シュタージ)の支局庁舎内を視察しました。建物の壁には、子供たちが「社会主義万歳!」と書かれた横断幕を持って行進する絵が描かれておりました。
統一間もない同市内では、まだ壁がほとんど残されており、検問所として有名であった「チェックポイント・チャーリー」も建物がそのままの状態でしたが、人も車も自由に往来していました。周辺には壁の東側に街路灯が並び、それらは住民の西側への逃走を防ぐためか、壁から東側を照らすような建てられ方をしていました。共産社会は全てが監視と密告から成り立っている、旧国境線の上に立ちながら、そんなことを思いました。
あれから20年経ち、壁が横切っていたベルリン市内のポツダム広場の周辺は再開発され、日本のソニーなど外国資本が社屋を構えているようです。しかし昨年以来の世界同時不況で、旧東側出身の市民の中には、社会主義の方が良かったのではないかという声が上がり始めていることに驚きました。
先月ドイツで総選挙が行われ、保守系のキリスト教民主社会同盟(CDU)が社民系の社会民主党(SDP)との大連立を解消し、新たに中道の自由民主党(FDP)との新連立を組み、勝利しました。日本は国連で鳩山首相が、温室効果ガス25%削減を表明しましたが、ドイツは40%を打ち出し、その内の21%を削減したと聞きました。脱原発政策を一転、原発推進を掲げ、また経済では自由主義経済体制を進めていくとのことで、もしかしたら我が日本よりドイツが先に不況を脱するのかもしれません。これからのドイツの動きを注目して行きたいと思います。
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