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北方領土問題視察二日目

 視察二日目の今日は、一同レンタカーで午前8時に根室市を出発し、一路標津町に向かいました。昨日と打って変わり晴天で、市内から44号線を西に進んでおりますと、右手根室湾の向こう側に国後島が見えました。車は一旦内陸部に入り、44号線から右に折れ243号線に入ります。風蓮湖の西側に沿うように北上し、さらに244号線に入り海沿いに出ますと、再び国後島が一段と近くに見えて来ました。
 標津町の手前、別海町にある別海北方展望塔に立ち寄りました。備え付けの望遠鏡を覗くと、国後島西端の沿岸部、そして同島の泊山がくっきりはっきりスッキリ見ることができました。
 車はさらに北上し、目的地である標津町立北方領土館に行きました。同館には展望室の他、1855年(安政元年)の日魯通好条約による四島日本帰属確定から1945年(昭和20年)のソ連軍不法占拠に至る年表と解説板も設置されており勉強になりました。同館視察を終えたところで視察終了となり解散致しました。

 私は今年度会派視察の幹事を担いましたが、今回の視察を通じて、当時のソ連そして現在のロシアによる北方領土不法占拠の実態を改めて痛感致しました。
 日露間における領土問題は、少なくても1855年2月7日(旧暦の12月21日)の日魯通好条約締結から、その後の千島・樺太交換条約、ポーツマス講和条約の変遷を経て、1945年8月9日の対日参戦までは、両国間で正常に処理されてきておりました。しかし先の大戦で日本の状況が不利と見るや、開戦一時間前に日ソ中立条約破棄と宣戦布告を通告し対日攻撃を開始し、さらには日本がポツダム宣言を受諾し降伏したにもかかわらず、千島列島や南樺太への侵攻をするという戦時国際法違反を公然と行いました。ソ連軍の侵攻は、択捉島の北に位置するウルップ島で一旦止まりますが、北方四島への米軍上陸が無いと見るや、さたに南下し四島を占領しました。 ソ連政府は大戦後、四島は千島列島に一部であり元来ソ連領との主張をしておりましたが、択捉島の手前で進軍を止めたことは、ソ連側にも1855年以来の四島日本帰属の認識が有ったものと思われます。
 最近ロシア政府は、第二次世界大戦で確定した国境線を変更するつもりはないとの新しい主張を展開しております。国際社会は、その善し悪しは別として、力と力のぶつかり合いです。北朝鮮拉致問題では、未だ全ての拉致被害者を取り返す力が無いのと同様、北方領土そして竹島問題でも、未だ領土を取り戻す力を備えていないのが、我が日本の現状であります。
 今政権交代が叫ばれております。国家の構成要件は政府・国民・領土であります。日本が正常な国家に変革するための運動を、国民の皆様と起こして参りたいと思います。

             別海北方展望塔の壁に貼られているスローガン。
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          展望室から国後島を指さす。遠くに見える島影が国後島。DSC01139.JPG
          標津町立北方領土館から見た国後島。僅か24キロ先に在ります。
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                  解散前に、同館の前での記念撮影。DSC01172.JPG

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