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赤坂氷川山車巡行/「ぬち・どぅ・たから」を観て

030087_P1030087.jpg 赤坂氷川神社の例大祭が開催され、赤坂氷川山車が町内を巡行しました。山車の上部には人形が内蔵されており、からくり仕掛けで、それが上部に現れるという、おもしろい構造になっております。江戸時代から、こういう技術に日本人は長けていたのだと思いました(上写真)。

 NPO法人赤坂氷川山車保存会のホームページには、山車について以下のような説明があります。

 山王・神田両社とともに、氷川の山車も「江戸型山車」と呼んでいました。「二輪車の上に三層の構造物がある。この三層部分の最上部は人形の部分であり、つぎの層は水引幕にとりかこまれた枠で、人形はこの二層目の枠内を上下できるようにつくられる。さらに、この人形・水引幕の部分は「折畳まれた」状態で最下部の部分から人形が「せり出す」という二段上下可変式のカラクリ(機構)をもつものである。」と説明しています。つまり、二段の台の上に人形がすわるようになっています。これは将軍の上覧に供するために江戸城の門を入るときの工夫であるといいます。城門をくぐるとき、人形をからくりで下げ、城門をくぐったあとで人形をせり出すというものです。

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 神輿や山車の一行は、赤坂氷川神社を後に、米大使館宿舎前(左写真)、アークヒルズ前を順に通り、赤坂ツインタワー脇で休憩しました(右写真)。この後赤坂地区内を二日かけて巡行します。現代的な高層ビルが立ち並ぶ赤坂・六本木地区ですが、その足元を伝統的な山車が通るコンストラストは印象的でした。

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 舞台劇「命こそ宝-ぬち・どぅ・たから」を夕方観劇しました。同劇については9月2日の記事にも書きましたが、平成22年度港区文化芸術振興基金助成事業として開催されました。
 大東亜戦争(太平洋戦争)末期、民間の貨物船「対馬丸」学童疎開のため、沖縄の那覇港を九州に向け出航しました。夢と希望に満ちた本土疎開であったはずでしたが、昭和19年8月22日、対馬丸は米潜水艦により撃沈されてしまいました。乗船者1788名のうち、生存者259名、学童775名を含む8割の人命が鹿児島県悪石島沖871メートルの海底に消えました。
 この事件を初めて知ったのが、昭和50年、母と海洋博覧会を見に沖縄に行った時でした。ホテルでくつろいでいる時、テレビのニュースで学童疎開船が米潜水艦に撃沈されたことが放送されていました。おそらくその慰霊か何かの行事についてだったのでしょうが、詳しくは覚えておりません。ただニュースを見た母が、「この子達も生きていれば、海洋博を見ることができたかもしれないのに。」と言っていたのは覚えております。
 その後、小学生時代か、中学に上がってからか定かでありませんが、学校の図書館で再び事件について書かれた本を読み、この時初めて対馬丸という船名も目に致しました。
 同劇の脚本と主演を担った三枝万祐さんが、先日保守日本控室に来室された際、米軍側は、対馬丸が那覇港に入港する前に上海から来航していた事、民間の輸送船であること、おそらく子供達を乗せていたことまで、事前に知っていたものと考えられます、と聞かされました。非武装の民間船であろが、疎開中の子供達を運んでいようが、アメリカにとっては所詮敵でしかないのでしょうか。
 「大量破壊兵器がある。」といってアメリカはイラクを攻撃しました。その時、多くの民間人が犠牲になりました。民間地を誤爆したとの報道もありましたが、意図的なものを感じます。私は反米主義者ではありませんし、サダム・フセインのような独裁者はブッ倒すべきだと思います。が一方で、アメリカという国がどういう国で、どういう歴史をへて来た国か、日本人もよく理解した上で同盟関係をあ続けるべきでしょう。
 私は来年節目を迎えますが、それが終わりましたら、犠牲者慰霊の旅に行きたいと思います。

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