Home > 活動報告 > その他

その他

桜とショートケーキ

000357:DSC08330.jpg000358:DSC08337.jpg
 アークヒルズの桜並木は、桜が満開です(左写真 昨日撮影)。
 東京ミッドタウンには、巨大なショートケーキが出現致しました(右写真 本日撮影)。

松涛幼稚園オープンデイ

000292:DSC08114.jpg 母校松涛幼稚園のオープンデイに、母親を連れて行きました。
 同園は、昭和22年(1947年)に、林貞子氏により創立されましたが、平成18年に林園長先生が亡くなられ、また幼稚園も本年を以って閉園となりました。残念です。
 私は、昭和46年(1971年)に、それまで通っていた私立愛育幼稚園から松涛幼稚園に転園し、昭和48年(1973年)に第25回生として卒業致しました。自宅に残る卒園アルバムには、林先生の私へのコメントとして、「その日に起きた出来事を、論理的、科学的に話すことが出来る子」と評していただいております。母曰く、政治やジャーナリズムへの適正を、あの頃から見抜いておられた方だったようです。000293:DSC08108.jpg これまで何度か、周年行事で同園を訪れたことがございましたが、今回のオープンデーが最後の見納めとなりそうです。教室には、各期の卒園写真が飾られ、私の写真も見つけました(左の写真 前列左から3人目)。当時6歳です。
 同級生の皆さんは、慶応・学習院・聖心女子学院などの私立小学校に進まれる方が多かったのですが、私は縁在って地元の区立麻布小学校に進学致しました。
 これまで松涛幼稚園の運営に携わられて来られた皆様に心より敬意を表しますと共に、関係者の皆さん、卒園生の皆さんのご多幸をお祈り申し上げます。

中央業務支援隊創隊10周年

000230.jpg 陸上自衛隊中央業務支援隊の創隊10周年記念祝賀会に、港区防衛親交会顧問として出席して参りました(写真)。
 同隊は、平成12年、防衛庁(当時)の六本木から市ヶ谷への移転に伴い、それまでの檜町駐屯地業務隊、人事統計隊、印刷補給隊、市ヶ谷駐屯地業務隊の4個部隊が統合され発足しました。現在の隊長は新村暢宏陸将補で、市ヶ谷駐屯地司令を兼務しています。隊内は、総務部・人事統計部・印刷補給部から編成されています。また港区防衛親交会や市ヶ谷祭りなど、地域連携業務も担当しております。

葬送 大塚雄司先生

 元衆議院議員、大塚雄司氏が先月亡くなられ、今月16日に本葬、また18日には「お別れの会」が開催され、それぞれ列席させて頂きました。

 港区で生まれ育った者として、物心が付いた頃より、大塚先生のお名前を存じ上げておりました。都議会議員を経て、昭和51年の衆議院議員選挙で初当選されましたが、以来選挙の度に「おおつか ゆうじ!、おおつか ゆうじ!」と連呼して走る宣伝カーをよく見ました。
 昭和60年に行われた東京都議会議員選挙で、当時都議会議員でいらした清原錬太郎候補の演説会がロアビル前で行われ、当時の中曽根康弘首相も応援に来られました。
 私は聴衆の一人として、日の丸の小旗を持って、ロアビル前の階段に立っておりました。首相が到着されるまでの間、大塚雄司衆議院議員が演説されていらっしゃいました。その中で、「投票日の天気が悪いと、投票者数が減り、特定の組織政党に有利な結果となる。皆さん、投票に行って下さい。」と何度も訴えておられました。当時は、現在の様な期日前投票制度が無く、また投票時間も午後6時までとなっておりました。
 あれから四半世紀が経ち、投票に関する制度も改善し利便性も向上しました。しかし時代背景がどうであれ、利便性の善し悪しは別として、民主主義国家の主権者として、投票は権利の行使であり、投票しないことは、権利の放棄であることには変わりありません。「投票に行かなければならない。」大塚先生から最初に学んだ言葉です。
 先生は、3年前の区議会議員選挙の折、私の事務所に来訪されました。事務所の一番奥に、松下幸之助塾主の為書が貼られ、その隣に先生の為書が貼られていたのですが、その光景をご覧になられ、大いに喜ばれたそうです。
 港区から日本の国政発展貢献された大塚雄司先生のご逝去に心より哀悼の意を表しご冥福をお祈り申し上げます。
 合掌

父の墓参(10日)

000150:DSC07490.jpg 父の墓をお参りしました(上写真)。
 場所は、マニラ首都圏の郊外、パラニャーケ市にあるマニラ・メモリアル・パークの中です。パーク内には、27年前に暗殺されたベニグノ・アキノ元上院議員、その妻であるコラソン・アキノ元大統領のお墓もあり参拝しました。

 000151:DSC07536.jpgマニラ市内に移動し、リサール公園に参りました。公園内にはフィリピン独立の英雄、ホセ・リサールの記念塔が立っております。その近くに立つ国旗掲揚塔の土台部分に、1946年独立当時の国会議員の名前が記された碑が在り、その中に私の父親の名前、ヘルミノヒルド・アティエンザの名も彫られております。彼は30代の若かりし頃、独立と建国の理想に燃え、国会議員になったのだと思いますが、同志と共に栄誉を称えられていることに感動を覚えました(中写真)。

000152:DSC07574.jpg その後観光地で有名なサンチャゴ要塞、サンオーガスティン教会を見て周りました。サンオーガスティン教会は400年前に建立された石造りの教会で、フィリピンだけでなく人類の遺産だと思いました(下写真)。

マニラより

 父の墓参のため、昨日19年ぶりにマニラ入りしました。

 日本人の多くが、フィリピン共和国の首都はマニラだと思いますが、英語表記ではMetro Manilaで、私流に直訳するとマニラ都になります。何だか東京都みたいですが、日本の報道機関や旅行用のガイドブック等では、大マニラ市、あるいはマニラ首都圏と表記されておりますので、ここではマニラ首都圏で統一します(因みに東京都の英語表記は、Tokyo Metropolitanです)。
 東京都が23区や26市等で構成されているように、マニラ首都圏も17の市から構成されております。大統領官邸を初め行政機関が集中するマニラ市、大日本帝国の統治が終わり1946年の独立から1976年まで首都が置かれていたケソン市、金融などビジネスの拠点となっているマカティ市、ニノイ・アキノ国際空港や日本大使館が在るパサイ市などが在り、各市にはそれぞれ市庁と市議会が置かれています。

 ソフィテル・フィリピン・プラザホテル・マニラ(旧フィリピン・プラザホテル)にチェックインしました。玄関では宿泊客でも来場者でも構わずセキュリティ・チェック(保安検査)を受けましたが、こんなことは初めてです。そして晴れて入館すると、玄関で民族衣装を着た女性従業員が、相手が日本人でも韓国人でも欧米人でも構わず、「ボンジュール」と声をかけて来ました。フィリピンなのに何でフランス語なのかと思いきや、このホテルは何年か前にフランス資本の傘下になっていたのが理由のようです。
 宿泊客には全員ICカードが手渡されます。ドアキーのためかと初め思いましたが、それだけではなく、エレベータもこのカードが無ければ動かない仕組みで、不特定多数が出入りする可能性があるホテルでありながら、おそらくは保安上の理由かとも思いますが、その不特定多数を規制する経営上の思惑を感じました。

21J他287-7450.jpg チェックイン後、鉄道ファンの血が騒いだか、首都圏内を走る鉄道MRT3(Metro Rail Transit Line 3)に乗りました。1991年に来比した際は、高架鉄道はLRT1(Light Rail Transit 1)の一路線しか運航していませんでしたが、現在は3路線が運行されています。
 始発駅であるタフトアベニュー駅では、乗車券購入前に乗客は全員セキュリティチェックを受けました。これも以前は無かった現象です。また乗車券販売窓口が少ないため長蛇の列が出来ていました。 車両はドイツ製で、一応エアコンも作動しているはずですが、あまりに多くの乗客がいるため、車内は息苦しい環境でした。
 このMRT3でオルティガスに行きました。17市の一つマンダルーヨン市にあるオルティガスは、1990年代以降、マカティ市に次ぐビジネスセンターとして急成長している地域ですが、1986年のエドュサ革命(日本ではフィリピン革命と呼ばれますが)の際、この地区を走るエドュサ通りからマラカニアン宮殿(大統領官邸)へ人々の行進が行われ、それを記念して、1989年に新たにエドュサ教会が建立されました。21J他287-7458.jpg
 MRT3でアヤラ駅まで戻りました。アヤラはフィリピンの財閥の名前で、現在のマカティ市も、元々はアヤラ家の所有地であったと言われております。そのせいか同市のメインストリートはアヤラ通りと呼ばれております。同市にあるインターコンティネンタルホテルは思い出の場所。幼年期にこのホテルにあるレストラン「ジープニーバー」でよく食事をしました。店内にジープニー(米軍ジープを改造した小型バス)を模した座席が置かれているのが特徴のはずだったのですが、ジープニー席は既に撤去され、車両のパーツのみが店内の壁に貼られているだけで残念。21J他287-7464.jpg
 ホテル周辺は、昔は大きな駐車場と大型免税店が一軒あるだけの簡素な環境でしたが、現在はショッピングセンターも複数立ち並び、自動車も増え、鉄道まで走っている状態で、混沌とした街に変貌してしまいました。変わったといえば、かってマニラ湾沿いを走っていたロハス大通りは、椰子の木が立ち並び、フィリピンないしはマニラを象徴する景観でしたが、海は埋め立てられ、木々は切り取られ、単なる大通りに変わっていました。日本で言われているような景観も何もあったものではありません。

 夜ホテルに、従兄弟で元マニラ市長のリト・アティエンザ氏が訪ねて来ました。マニラ圏内で一日感じたことですが、空港は当然としても、ホテルも公共交通機関も、果ては飲食店に至るまで、保安検査が徹底され、良しも悪しきもノー天気なフィリピン社会が、何か安全に対して神経質になっているムードについて、彼に疑問をぶつけてみました。「今はテロの時代。全てテロが原因だ。治安も良くない。」という答えが返ってきました。
 およそ20年ぶりのマニラですが、アロヨ政権下で都市の開発が進む一方、治安悪化に神経を使わなければならない空気を感じました。今年5月には、大統領選挙が行われますが、この国の針路に関心を持ち続けたいと思いました。そして今日、墓参を終えたところですが、その様子は明日以降に掲載します(明日10日に帰国します)。

戦車体験搭乗

000090(DSC07119).jpg 港区防衛親交会の平成21年度戦車体験搭乗(部隊研修)として、陸上自衛隊駒門駐屯地(静岡県御殿場市)を訪れました。
 同駐屯地には、PKOなどのための教育を行う国際活動教育隊、機甲科部隊である第一戦車大隊、対空ミサイル射撃などを行う第一高射特科大隊、工兵部隊である第364施設中隊などが駐屯しております。駐屯地司令には、国際教育活動隊長(連隊長級)が兼務しております。
 駐屯地司令への表敬を終えた後、体験搭乗しました。今回体験搭乗したのが74式戦車です。三菱重工製で、日本の山がちな国土形状に合わせ、戦車の高さや傾きなど自由に制御できる能力を持っております。1974年(昭和49年)から導入されたモデルであることから74式と呼ばれます。大戦前なら形式番号に皇紀を使用していたのですが、戦後は西暦を使用しているのが実情です。国産戦車なのですから、せめて年号を使用してほしいと国民の一人としては思います。
 参加者は、10名程度のグループに分かれ、順次搭乗し、戦車は駐屯地敷地内を巡回しました。やはり軍用だけあって、エンジン音は大きく、また走行中の揺れも相当なものです。特にカーブなどでは、一般車両のように曲がるのではなく、キャタピラ走行のため、徐々に複数回方向転換しながら曲がります。
 搭乗後、運転席に座らせていただきました(上の写真)。戦車内のことについては軍事機密のため公にはできませんが、運転席は私にはとにかく狭いの一言につきます。ただハンドル、ギア、アクセル、ブレーキなどが有る事は、一般車両と同じでした。
 体験搭乗の後、81式短距離地対空誘導弾や対空レーダー装置JTPS-P14の見学も行いました(下の写真)。日本は島国ですので、敵による正面攻撃の場合は、国土に対する着上陸が考えられます。対空装備は、そのための備えの一環であり、必要不可欠な装備であることを、改めて認識致しました。

000091(DSC07185).jpg 今回の研修を主催した港区防衛親交会は、昭和53年(1978年)に設立された団体です。当時防衛庁は六本木に在りました。設立時私はまだ小学生でしたが、母親が教育上必要とのことで、私の名前で会員登録してしまいました。以来会員として活動して参りましたが、議員就任後、同会の顧問就任を依頼されお受けしております。

<関連URL>
防衛省・陸上自衛隊|装備|車両 http://www.mod.go.jp/gsdf/equipment/ve/1_25.html

 

大塚雄司元衆議院議員 本葬儀のお知らせ

 大塚雄司元衆議院議員の本葬儀についてのお知らせが、過日入電致しましたので、以下転載致します。
 なお二日前にご案内の「お別れの会」とは別のご案内でございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

父 元衆議院議員 大塚雄司 儀 病気療養中のところ一月十日逝去いたしました
御通知が遅れましたことを深くお詫び申し上げます

 生前のご厚誼を深謝し下記の通り本葬儀を執り行いますので謹んで御通知申し上げます
  一、日時 平成二十二年二月十六日(火) 本葬儀 午後六時
  一、場所 麻布山 善福寺
         東京都港区元麻布一丁目六番二十一号
         電話 03(3451)7402

 平成二十二年一月

                     東京都港区北青山三丁目三番七号 二階
                      長男 大塚公朗
                      次男 大塚隆朗(東京都議会議員)

故大塚雄司氏 お別れ会のお知らせ

 既にご存知の方もおられますが、元衆議院議員・建設大臣の大塚雄司氏が、今月10日亡くなられました。
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 下記のとおり「お別れ会」のお知らせが入電しましたので、転載致します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お別れの会」のお知らせ

弊社代表取締役 大塚雄司 儀
 去る1月10日永眠致しました。ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます。
 通夜及び密葬の儀は近親者にて済ませました。つきましては「お別れ会」を下記の通り執り行います。

     日時 平成22年2月18日(木) 午後1時~午後3時
     場所 東京プリンスホテル「プロビデンスホール」
        港区芝公園3-3-1 電話 03-3432-1111

 ご来場の節は際は平服にてお越し下さるようお願い申し上げます。
 なお誠に勝手ながらご香典ご供花ご供物の儀は固くご辞退申し上げます。

 平成22年1月

市街地開発株式会社  
代表取締役 中井 暲典
電話 03-3403-2571
大塚雄司事務所    
電話 03-3401-5111
妻     大塚 智子

神戸から戻りました

 寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲号」(列車番号5032M)に乗って神戸より戻りました。この列車は、「サンライズ瀬戸号」として高松を、また「サンライズ出雲号」として出雲市をそれぞれ出発し、岡山で連結し東京に向かいます。午前0時13分に三宮駅から乗車し、午前7時8分に東京駅に着きました。

21J政277-6541.jpg 昨日は阪神淡路大震災での犠牲者への追悼の後、神戸で先祖の墓参、続いて和歌山で松下幸之助塾主(松下政経塾創設者)の墓参(左写真)をそれぞれ行い、その後再び神戸に戻りました。
 元町通り商店街は、神戸市内有数の商店街の一つです。やけに人通りが少なかったのですが、日曜の夕方ということで仕方が無いのかと思いました。同商店街にあるステーキレストランにぶらっと入り夕食を取りました。店のご主人に人通りが少ないことを尋ねると、「日曜の夕方と言うことではなく、普段から人通りが少ない。特に震災後は顕著だ。」という答えが返ってきました。叔母が生前本町で画廊を開いていた関係で、東京の人間でありながら、子供の頃から元町の活気には慣れているつもりだっただけにショックでした。震災から15年、右の写真の夜景にもあるとおり、確かに見える場所は復興しているのかもしれませんが、見えないところはまだまだであり、改めて神戸の現実を思い知らされました。

21J政277-6577.jpg 私が自分の身分を明かすと、「民主党政権になってから、景気はもっと悪化している。国会では政治とカネの話ばかりだが、まずは景気を建て直してほしい。」とも言われました。ご主人は続けて、「欧州では消費税を上げないようにして、消費を拡大している。金持ちには不利かもしれないが、まずは中流以下の人々がお金を使い易くすることが景気回復につながると思う。」さらに「今の教育も良くない。戦後日本の教育を悪くしたのは日教組だ。」とまで訴えたことが心に残りました。

 東京駅から自宅に戻り、小休止の後、東京メトロ南北線六本木一丁目2番口にて、駅頭挨拶活動を行いました。

ALL page  1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11 

Home > 活動報告 > その他

フォト
このサイトを検索
アーカイブ
フィード

このページの先頭へ戻る